2006年4月28日 (金)

大阪市中央区

このブログは、見ての通りdiaryではなくて、回想やつぶやき、そして添えられた写真の解説である。
その目的は、自分の写真がweb上でどのように映るかという興味と、自分の写真に対して客観性を持つためである。
個展向けの作品というのは、普通、数年を費やして歩き、何千回とシャッターを押し、そこから数百枚のプリントを得る。そしてその数百枚から四〜五十枚に絞り込む。
この、各過程で客観性が求められるが、いいかげん疲れてきてしまった。
前回の個展以降、次回作を撮り続けてきたが、まとまらないまま今日に至っている。結局このブログはその残滓のようなものかもしれない。

このホームレス男性に出会った瞬間、感動して、写真を撮らずにはいられなかった。
失礼のないよう、力を尽くして撮った。
その容貌はチベットの高僧のようだ。
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2006年4月17日 (月)

大阪市北区中津

ここ数ヶ月は、軍艦アパート(下寺アパート)という築75年の大型物件に取り組んでいたのでお疲れ気味である。
しかし、まだまだ撮りきれていないという後悔がある。その未練たらしい感情は、廃墟となって立ち入れないものの、それがまだそこに、相変わらず存在するという苛立ちからくるものだ。
とはいえそういう後悔が次のテーマへと向かわせる。撮影機材は、ここ数ヶ月で大きく変わったが、その方法論はより強固に、そして柔軟に変化した。その成果は近々発表できると思う。

梅田から北へ歩くと、意外に静かな住宅街とさみしい河川敷にたどりついた。
写真に撮るようなものはなにもないが、土手の上をとぼとぼ歩いて高層住宅群を望む位置に至る。
三脚とカメラをセットし、ゴッセンのメーターにマグライトをかざして喝を入れてから露出を測る。
マガジンスライドを抜くが早いか、レリーズを押す。数十秒間の噛み締めるような刹那、フィルム乳剤面の光像を透視するがごとく思いを込める。
これは、デジタルカメラになっても変わらない流儀だ。
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2006年4月12日 (水)

茨木市学園南町

ずっと以前は、ライカなどを首からさげ、トマソン的物件やら下町路地裏を縦位置で切り取っていた。
なぜ縦位置かというと、35mm判のアスペクト比(2:3)の、横位置での座りの悪さが我慢ならなかったからである。
しかし、横位置で撮るべきものも縦位置で切り取った。それは、なにか形而上学的な空間理解が反映された行為であるような雰囲気を漂わせたが、当の本人が哲学を語れないため、縦も横もないスクエアフォーマット(6×6判)に逃げることにした(笑)。
スクエア画面の求心性は強力である。ともするといわゆる日の丸構図となるが、これを避けようとするととても難しい。悩んだあげく撮った写真を人に見せて、「これ、6×4.5のほうがよかったんじゃないの?」といわれて激怒する羽目となる(笑)。

茨木市内の遅々として進まない橋梁工事。コンクリートの橋脚が連続する様子は、まるでミニマルアートのようだ。
日本全国の、人間より狐狸のほうが多いような地域にもこのようなコンクリートのマッスが乱立し、放置されていることもあると聞く。それを、いつか撮って歩きたい。
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2006年4月 1日 (土)

茨木市東奈良(2)

仕事では考古遺物や古美術品などを撮影することがある。
それらは、長年地中に埋まっていたものや、倉の中に大事にしまい込まれていたものが多いが、一様に感じることは、そのエイジングの進み方と実際の経年におどろくほど差があるようにみえることだ。
地中から姿を現した遺物は、千年を経ながらも、つい先ほどまで使われていたような輝きを保っていることがある。それに比べ、75年しか経ていないRC住宅の表面のほうが古くみえるのはなぜだろうか。

夜の遺跡というのは、基本的に立ち入りできないから、それを撮影することは難しい。それに普通は保護シートに覆われているはずである。
石灰で縁取られた遺構は白く輝き、アースワークめいた印象をうける。というよりこれは調査担当者のセンスが問われる土の作品そのものなのである。
遺跡の上に建てられた安普請のマンション。その存続期間は、遺跡と比べたら一瞬のきらめきのような儚いものだろう。儚きもの、せめて写真にとどめよう。
060331

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2006年3月11日 (土)

大阪市浪速区日本橋(2)

旅というのは、まず高速で移動することによって生じる高揚感がある。
そして、すくなくとも日本国内ではどこも代わり映えしないはずの空港や駅前の光景さえも異化されてみえるという効果があり、それが写真家を旅に向かわせる要因ともなる。
どこかへ旅しないと写真が撮れないという人が結構いる。これでは、いくらお金があっても足らないから、わたしには許されない。
貧乏写真家は、ときにアルコールの力で視覚の異化を得ながら、大阪市内を旅する。終電があるので走らねばならないが。

下寺住宅に向かう途中で出会う、ガンダム屋の巨大看板を、無理なアオリでフレーミングしてみた。
実は露出は失敗、一絞り半は足らなかったのでスキャニングは苦労した。
しかし、そのおかげで白いガンダムが夜の街に浮かびあがった。
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2006年3月 2日 (木)

箕面市粟生間谷

夜の旧街道をバイクで走る。
撮影地に向かう為とはいえ、これはめったにしないことだ。タンデムシートにくくりつけた機材が気になってしかたない。
基本的には夜の散歩写真なので、バイクのペースはそれにそぐわない。きょろきょろしながら運転すると、事故をおこしてしまう。
自転車が理想的なのかもしれないが、試したことはない。

やがて目的地へと到着。郊外とはいえ、広大な開発地内には誰一人確認できない。
行き交う車も途切れると、完全に静寂が支配する空間になる。
目が慣れてくると足下の不安感は除かれるものの、得体の知れない恐怖感は拭えない。
荒れた地面にオブジェめいた橋脚がたちならび、やや遠くのナトリウムランプが薄く照らしている。
超広角レンズをセットして、まっすぐに、祈るように、シャッターをあける。
360秒間の露光を終えると、野犬の咆哮が静寂を切り裂いた。
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2006年2月 7日 (火)

大阪市北区梅田(2)

その昔、貧乏人の家にはカメラなんてなかった。
そういえば、うちにもなかった。それでもアルバムはあったから、何かの折には写真館に行ったり、近所のカメラを持つ人に頼んでいたのだろう。
ゆえに一コマのフィルム、一枚のプリントが大切にされていた時代だったと思う。
それから時代がだいぶ下っても、ハーフサイズカメラの最初のコマは正月にはじまり、お花見、海水浴、運動会と一年の家族行事を大切に収め、最後のコマに次の年の正月が写っていた。
そんな笑い話みたいなものだった。
いまでもひょっこりそんな時代の写真が出てきては、その当時の記憶がおしよせてくる。

梅田のホームレスの飼い猫。
家人は空き缶集めに出掛けたので、おとなしく留守番だ。もうゴハンはもらったので、眠たくてしかたない。
実はとても暗い場所なので、10秒くらいはじっとしていてもらわなければ困る。
ピントも目測だ。しかたないので、猫たちに呼びかけた。
「じっとしててねー」「ニャー」
060207

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2006年1月25日 (水)

大阪市中央区南久宝寺町

あれは、高校生二年生くらいの頃だった。
梅田のデパートで有名写真家の写真展があり、買ってもらったばかりのニコンを手に、そのサイン会に参加したことがある。もちろん、その図録くらいは買わねばならない。
当時わたしは、写真家というのはデパートで写真展をやって稼いでいる人だと思っていたふしがある。その頃、写真ギャラリーはカメラメーカーのサロンくらいしかなく、しかもそれはとても敷居が高かった。
そのころニコンのボディを買うと付属していた「ニコンの世界」という本を眺めては、第一線で活躍していた写真家の仕事に憧れた。
いまは、写真家を志す人にとってはいい環境になった。その表現も発表手段も自由だ。なんていっても写真を専門に扱ってくれるギャラリーがたくさんできたのがうれしい。

大阪市のど真ん中、古いビルの屋上にあるBeats-Gallery(ビーツギャラリー)は、写真馬鹿が集う、体育会系写真ギャラリーだ。
大抵のギャラリーでは、お褒めの言葉しか聞こえない。それは、自分のときにお返しがほしいからである。まるでカラオケの拍手みたいなものだ。
しかし、どんなベテランもここで個展をやるのは、コワい。ここでは写真は格闘技なのである。

ビーツは、残念ながらいまは休廊中。春にはあたらしい展開をみせてくれると思う。
こんな屋上にあるギャラリー、じつは、別の意味でも怖い。
060125

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2006年1月21日 (土)

摂津市南別府

夜の撮影というのは、怖い。
夜歩きそのものが、最近は危険なことである。しかし、本当に怖いのは、フィルムに得体の知れないものが写っていたときだ。
鶴橋の駅からしばらく歩いたアーケードに面して商店の廃屋があった。その窓ガラスに、相当年季の入った造花が飾ってあって、造花なのに枯れ花のような美しさがあった。ここはヤバいな、と思いつつ、何度か通ったが、一度、樽井くんを連れて行ったことがあった。案の定、樽井くんのカメラが壊れた。そこでカメラが壊れるというのは、怪奇心霊スポットでのお約束である。
後日、またひとりで訪れた。わたしのハッセルは壊れることはなかったが、ファインダーを覗いていると窓ガラスの向こうを腰の曲がった老婆がふっと通り過ぎた。で、で、でたっー!!。
ようするに廃屋ではなくてバアさんが住んでいたのであった。
ここまでなら笑い話で終わるのだが、問題は写した写真である。
それは公開できない。なぜなら・・・。

街外れの市営墓地。墓場だから怖いというわけではないが、ここはほんとに怖かった。恐怖に打ち勝って撮れた六地蔵と変電所の構図は、われながら完璧と言っておこう。
しかし、なんでこんなとこ撮ったのだろうか。
060121

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2006年1月14日 (土)

大阪市中央区日本橋

ずいぶん前から、週末になると梅田から心斎橋、難波、そして日本橋の電気屋街を巡っている。
中古カメラ店、写真ギャラリー、PCパーツ屋などを覗きながら、知り合いに出会ったり、被写体を発見したり、たのしいひとときである。
とはいえ、カメラバックと三脚を持ち歩きながら、一枚も撮れない日が多い。
わたしは写真を撮るのが好きかと問われれば、どうもそうでもないらしい。だから、のべつくまなくパチャパチャやっている人をみると、「そんなにおもしろいかい?」と聞きたくなる。
作品の方法論として、無意識や偶然に切り込んでいくやり方はあると思うが、残念ながらそういう才能は持ち合わせていない。

わたしは画面構成至上主義である。「うつくしい」と思える事物の配置に出会わないと、写欲が湧かない。
「うつくしい」ものには、何んらかの精神性が宿っている。
しかし、その芳香はこつ然と漂い、消え去ってしまう。
060117

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