軍艦アパート未発表作13
いくら取り壊しとはいっても古タンスくらい処分すべきだと思うが、絵的にはよろしい。
この度、ホームページを開設したが、いまだ英語と悪戦苦闘ゆえ工事中。
http://web.mac.com/arcbody/nakahigashi-photography/enter.html
このブログのコンテンツも改変しながらホームページに盛り込む予定。
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この画像のファイル名をみると、_MG_1883とあったから、軍艦アパートの撮影を初めて間もない頃だったことがわかる。このころはHDRI(ハイ・ダイナミック・レンジ・イメージ)のことは意識になくて、露出ブラケットした三枚のコンポジットだったが、銀塩カメラから転じたばかりでデジタルカメラの利便性に感激していたものだった。
にわかにデジタル化して撮影にのぞんでいたが、それがベストの選択だったかはいま考えるとわからない。できればフィルムでも残しておきたかった気もするが、デジタルとは撮影時の生理が違うので両方持って歩くということは、私にはできなかったろう。
あれからもう2年以上になるが、少なくとも作品撮りではもうすっかり銀塩カメラを使うことはなくなった。ほんとはどちらが優劣ということはなく、むしろ銀塩の方がいまだ優れた作品を生み出し続けている真実はあるが、戻ろうとは思わない。しかも銀塩カメラを巡る状況は悪化する一方である。
使わなくなった銀塩カメラはほとんど売ってしまったが、何年も使ったあげく同じ金額を銀行に預けるよりはすこし得だった。これは何年経っても古くならない銀塩カメラゆえの利点と言っておこう。
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「7号棟中庭」
この中庭になっているスペースへ踏み込むのは、最初おそるおそるだった。隣の8号棟の中庭にある壊れた稲荷社を横切っていかねばならなかったからだ。軍艦アパートの本格撮影はこの場所から始めた。出会った住人すべてに挨拶をしながら撮っていたが、さすがに夜の撮影者に対しては怪訝な表情だった。それでも撮影をとがめられるようなことはなく、ありがたかった。
いまにも崩れそうなレンガ塀の影にカメラを据えて考えていたことは、撮影のことよりもトイレの心配だったような気がするが、それは撮影前に飲んだビールの報いだからしかたない。飲んだほうが景色が美しく見えるという効用もあると思うが、飲み過ぎるとカメラ操作を誤るのも当然だ。
しかし、ピント合わせを忘れるというのは、いくらなんでもアホである。そんなアホでもだんだんと軍艦アパートの雰囲気にも慣れ、撮影は続いていった。その原点というべきこの7号棟の中庭は、無くなったいまでもいちばん印象深い。なにか清浄な雰囲気に包まれていた気がするが、写真を見るたびにその理由を考えている。
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「7号棟から8号棟を望む」
軍艦アパートの特徴である出し屋は、古い年代に作られたと思われる色あせた物件をみると、ある程度の規格性が感じられたから、手作りではなく正式な大工仕事だったと思われる。
とくに大きく張り出した出し屋は、一階が二階を、二階が三階を支えるような構造になっていたりするが、そういう力学的な法則を無視した大胆な出し家もあって、大阪弁なら「これ、ええかいな?」と叫んでしまいそうになる。
しかし、たいていの出し屋はこじんまりとささやかで、ひとことで言うと「かわいらしい」。このかわいらしい一戸一戸に灯りが点り、たくさんの家族がわいわいと暮らしていた頃を思うと、なぜだかほほえましい。
奥に煌煌とみえるマンションの清潔なたたずまいは、あまりにも対照的だが、昔ほどの子だくさんは減ったとはいえ、いまも変わらぬ営みの場所である。
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「7号棟と8号棟」
7号棟と8号棟の隙間は、建て増しによって人ひとり抜けるのがやっとの狭いスペースとなっていた。こうやって2〜3階部分をみても、両側から迫り出した「出し屋」でわずかな隙間しかないのがわかる。
とくに角の部屋であることを利用した大胆な施工には驚かされるが、実際この部屋をどのように利用していたのだろうか。割合しっかりした普請だが、あんまり重量物は置けないだろうし、子供部屋にしたとしても、ここで寝るのはちょっとこわい。ただし、この出し屋が脱落した事故というのは聞いたことはない。
これを撮ったのは、もう2年前で「サヨナラ軍艦アパート」の撮影スタイルが固まる以前である。もともとハッセルで撮っていた夜景のシリーズにつなげようとして、試行錯誤した時期であった。この写真が縦位置であり、上の空間が空いているのは、当然スクエアへのトリミングを想定していたものだった。
HDRI作成については、最初は普通にオートブラケットしていたものをコンポジットしたものだったが、輝度差の激しい光景だと満足な結果が得られず、やがてその段数は増えていった。
あの頃の出来事が、つい先日のように感じてしまう。こんな魅力的な被写体はもう見つからないが、感傷にひたっている暇はない。今週も、いつか撮ろうと思っていた建物が消えて無くなっているのがわかり、ショックを受けた。この冬は、そんな物件のいくつかを追いかけていきたい。
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「2号棟および8号棟」
この写真は、新宿展では使ったかもしれないが、大阪展では使わなかった。他と色みが違うのは、これはNikonD50とPC-Nikkor35mmで撮ったからだった。
この交差点は定点的に撮ったが、夜でもやたら交通量が多いうえに信号のサイクルが25秒くらいしかない。信号が変わったり、車が通ったりするたびにイライラしながら撮影したのを覚えている。結局、車が減る夜10時を過ぎないと撮り終わらないので、帰りの時間にはいつも焦った。
今思えば、夜通しすればもっとたくさん撮れたのだが、その年の冬はあまりにも寒かった。寒いうえに怖いので、夜通しなんて考えたこともなかった。どちらかといえばさっさと切り上げて、早く帰りたいと思いながら撮っていたものだった。
そんな状況だったので、撮影に本腰が入ったのは、閉鎖される直前だった。75年分の澱がどっと噴き出し、漂う毒気にあてられたかのように、夢中で撮ったのを覚えている。
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「7、8号棟間の通路」
この隙間は、本来あるていどの広さがあったのが、両側からの建て増しで人ひとりが通り抜けるのがやっとの通路になってしまっていた。この奥には袋状の空間があり、お気に入りの撮影ポイントのひとつだった。
じつは、お気に入りというよりもとくに撮影に難儀した場所だった。その空間に面してある家族の居間の窓があるため、そこに佇んでいるとまるでノゾキみたいにみえる。しかもカメラまで手にしているのだ。
しかたなしに、息を殺してそっとカメラを三脚に据え撮影を始めるのだが、そんなときにかぎって、いつもそれは始まる。幼い姉弟のささいなけんかにはじまり、それを罵倒する母親、やがてそれはなぜか母親と祖母のけんかに発展する。その怒号は、表通りにまで響いているのだが、そんなことはいっこうにお構いなしだ。
たまらないのは窓の外の私である。あるときなどは、さすがに止めに入ろうかと思ったくらいであった。やがてそのお騒がせ家族も引っ越してしまったが、窓からもれる灯りや喧噪も途絶えると、とたんにその魅力ある空間も色褪せてしまった。
私の記憶の中には今も、餅を食べられてしまい泣く弟への、おもしろくもかなしい母親の罵声が響く。
「こらあー、おまえもなー、餅食うたことない子みたいに泣くなー!!」
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「4号棟屋上」
2006年の1月初旬、下寺住宅の住民は、近所に建った新築の市営住宅への引っ越しを開始した。
1月中にほとんどの部屋が引っ越すものだと思っていたら、名残惜しいのか、2月にはいってもずいぶんと部屋の灯りが残っている。よく観察していると、夜間でも、台車に荷物をのせた住人が下寺住宅と新築住宅のあいだ数百メートルを行き来している。
ようするに、とてもゆっくりした引っ越しだったのだ。この期間は家が二軒あるようなもので、必要品と不要品を新旧の家に振り分け、空いた部屋に寝ればいい。かくして下寺住宅内は、徐々にゴミの山と化していった。
3月にはいると、さすがに灯りの数もわずかになった。記憶が正しければ、3月8日が下寺住宅に出入りできる最後の日だった。この日の夕方、7号棟の元商店だった部屋の扉が少し開いていた。中を伺うと、おばあさんがひとり佇んでいる。わたしは、部屋の撮影を申し出ることをやめ、そっとその場を離れた。
暗くなって、その部屋の前を通ると、もう開かれることのない扉には、しっかりと鍵が掛けられていた。
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